李氏朝鮮末期の凄惨
悪辣な両班、苛烈な搾取、
悲惨な貧困、極限的不潔、
未発達な社会、残虐な刑罰、
動物以下の女性の生活など、
外国人が見た人間業とは思えない
李氏朝鮮末期の実態
(車輪がないので、物の運搬は人や馬の背に乗せるしかない。多くの人や馬が歩いたあとは道になる)
道路・交通 ― 道路はつくられていない。それはただ生じただけだ。
『朝鮮紀行』(51)
(汽船はまともに動かない)
済物浦は島の点在する漢江の河口にあり、また漢江は56マイル(90km)上流にあるソウルの河港麻浦まで航行可能である。そこで人並みより多少とも積極性に富んだ人々がこのふたつの町を汽船で連絡させようとついに思いついた。ところが単純な事業のはずが、待ち受けていたのは複雑多様な困難だった。この汽船に身を託したことのある乗客はまず例外なく胸にひと言持っている。いわく、船が砂州に乗り上げた、下船しようにもできなかった、いらいらやきもきしたあげく通りすがりのサンパンを呼びとめて麻浦にとどり着いた、予定より何時間も遅れるわ、おなかはすくわ、くたびれはてるわ、でむしゃくしゃした。というのも、汽船には運航業務を果たす力が半分しかなく、潮の干満が激しいうえに河床は浅いところが多くて、しかも砂州はほとんど干潮のたびごとに位置を変える。したがってこの天然の交通路は慎重な人々にはたいしてひいきにされず、首都への連絡はなににつけても「道路」によって行われる。
(6人で担ぐ輿で移動)
正確に言えば道路は存在しないが、このことばを用いることにする。ソウル駐在のイギリス代理総領事ガードナー氏が親切にも25マイル(40km)の道をエスコートしてくださった。私は6人でかつぐ輿におさまり、7時間でソウルに着いた。気のいい輿かつぎたちはジョークを飛ばし、笑い、領事の朝鮮馬と競争した。道路は交通そのものに損なわれてしまい、はっきりしない箇所が多く、たいがいは公道3、4本分の幅をだいなしにしてわだちがばらばらについている。しかも深いぬかるみを避けてあらたに出発しているところが多い。ぬかるみはほとんどが底なしである。清国人所有の牛車が荷物の運搬を試みているが、2、3台泥のなかにはまりこみ、どんなありさまになったかは春になるまでわからなかった。
『西洋人の見た朝鮮』(198)
ローウェル『チョソン、静かな朝の国』
(道路は作られない、ただ生じただけ)
ローウェルは「朝鮮には道路が非常に貧弱である」、また「この半島の道という道は全く整備されていない」と見た。彼の目には、道路とは名ばかりで、実際はただの「通路」としか映らなかった。この箇所で彼は鋭い観察をしてみせる。「道路は作られていない。それはただ生じただけだ」と。これは何を意味するのか。彼は人々が積極的かつ計画的に道路作りをしていないのを指摘しながら、人が足を運ぶうちに自然に、歩ける程度の道が生じたのだと解釈したのである。
(旅館がない)
こうした状態で、旅行は決して楽でなかった。しかし彼の見るところ、朝鮮人は旅行が嫌いなのでは決してない。それでいて、「朝鮮には旅館というもの自体が見当たらない」。では、そのわけは何か。彼は「その理由は中産階級の不在にある」と断言する。この国は約1万の上流階層と、残り約1000万の下流階層から成っており、上流階層の中核は官吏たちだと見た。ところで官吏たちは、旅行するとき地方官庁の官舎に泊まればすむし、また下流階層の人たちは自分たちが特権階層から除外された存在だという仲間意識から、親切にお互いの家に泊まったので、旅館は発達をみなかったというのである。
『西洋人の見た朝鮮』(208)
フォーク『米国海軍将校フォークの日記』(1884年11月から南部を旅行し毎日日記をつけた)
(厠がない)
43日間にわたる900マイルの旅程で、フォークは実に多くの体験をした。まず、広くてよく均された道もあったが、ほぼたいていは狭くて汚い道が多いことを知ったし、睡眠をとれないくらい南京虫や虱のはびこっている客舎(役人の泊まる地方宿舎)も経験した。どこへ行っても厠がなく、あったとしても非常に不便なものだったのが、彼には辛かった。また、人の住む家があまりにもみすぼらしく、周りの環境のひどさが尋常ではないこと、子供はほとんどが裸同然で、裸足のまま暮らしていること、女は何もかも隠したまま暮らしていること、などを確認した。
『朝鮮紀行』(32)
道路事情は劣悪であり、幹線道路すら粗雑な馬車道でしかないものがほとんどである。荷物は人間か牛か朝鮮馬の背に乗せてどこへでも運ぶが、営業権を得たアメリカ企業が済者浦・ソウル間に鉄道を敷設し、1898年に開通する予定となっている。(ソウル)
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