李氏朝鮮末期の凄惨


悪辣な両班、苛烈な搾取、悲惨な貧困、極限的不潔、

未発達な社会、残虐な刑罰、動物以下の女性の生活など、外国人が見た人間業とは思えない李氏朝鮮末期の

実態

韓国の鄭鉉栢女性家族相は慰安婦関連事業について「多様な歴史記録を基盤にした教育を通じて、女性の人権に対する正しい歴史認識を打ち立てる」と強調した。(2017.10.5 読売新聞社説)

彼女にこそ正しい歴史を教えてあげたい。


 

女性の生活―哀しみ・絶望・労役・疾病・無知・愛情不足などに打ちひしがれ、名前もない

 

『朝鮮事情』(212

 

(奴隷もしくは慰みもの)

 

 朝鮮では風俗は甚だしく腐敗しており、その必然的結果として、女性の一般的地位は不快なほどみじめで低い状態にある。女性は、男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力であるにすぎない。法と慣習は女性に対して何らの権利も与えず、いうなれば、なんら精神的存在として認めていないのである。「夫や両親の庇護下にいない女性はみな、主人のいない動物同様、最初に占有した男の所有物になる」ということが一般に認められており、法廷でも慣用の原則とされており、誰もこれに反駁しようとする者はいない。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(266

 

英国人画家サベッジ・ランドー『コリア、あるいはチョソン―静かな朝の国』 

 

 彼は朝鮮女性の観察を詳しく行った。結論は「コリアの女性は奴隷だ。快楽と労働を強いられている」と断じた。この国の女性は男性の快楽のために強いられ、そして家の暮らしのための労働力として使われているということだ。女の男への隷属が認められているから、「男が妾を囲う習わしは、国家的制度であり重婚の本質だ」と、彼は書いている。つづいて、「朝鮮の女性の生活は奴隷のそれであり、徹底した隔離状態に置かれている」と記している。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(168)  

 

米国人ウィリアム・グリフィス牧師『コリア―隠者の国』

 

 (女性は再婚できないが、男は妾を持てる)

 

 彼は、朝鮮が徹底した男尊女卑社会であると見た。彼によると、「朝鮮女性は快楽あるいは労働の道具であり、決して男性の同僚でも同等の存在でもない」。女性は自分の固有の名前を持たず、誰それの娘とか、誰それの妻とか、誰それの母というふうに呼ばれるだけであると、彼は付言する。女性の再婚は事実上許されない反面、男性は妾を何人でも持てる、と厳しく批判した。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(240

 

米国人宣教師ホレイス・グラント・アンダーウッド『コリアのアンダーウッド』

 

 (哀しみ・絶望・疾病・無知・愛情不足)

 

 アンダーウッド夫人は女性について、じっくり観察している。彼女はまず、朝鮮女性は美しくないと感じた。哀しみ・絶望・労役・疾病・無知・愛情不足などに打ちひしがれ、彼女らの目は生気を失ってぼんやりしている、と感じた。それまでの西洋人が一様に観察したように、彼女もまた、この国の女性が洗濯に費やす多くの労役に同情心を示した。この国で女たちは自分の名前さえ持たず、母親になっても「誰だれの母」とか「誰だれの奥さん」、あるいはまた「どこどこの宅」(嫁にくる前の場所名を借りて特定する)といったふうに呼ばれると指摘した。

 

 

 

アンダーウッド牧師と同じ船で済物浦に到着した今一人の米国人牧師ヘンリー・ゲルハルト・アペンゼラーの演説や日記

 

 (道徳的水準は絶望的に低い)

 

 アペンゼラーは朝鮮人の道徳水準が絶望的なまでに低いと判断した。指導的な立場の官吏はほとんどが腐敗しており、支配階層・被支配階層を問わず国民の大多数は迷信にとらわれ、富裕な男子はもちろんのこと、少しでも生活にゆとりができると男たちは妾を囲い、そのことに一向に羞恥心を感じないありさまだと指摘している。

 

 この点で彼は、蓄妾した男を「動物」に譬えた。彼はこのように道徳的に堕落した朝鮮人を救出できる道は、キリスト教を受容させることである、と心底確信した。

 

 

『朝鮮紀行』(65

 

(悪臭漂うドブ川で洗濯)

 

 ソウルの「風光」のひとつは小川というか下水というか水路である。ふたのない広い水路を暗くよどんだ水が、かつては砂利だった川床に堆積した排泄物やごみの間を、悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。水ならぬ混合物をひしゃくで手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯をしている貧困層の女性の姿に、男ばかりの群衆を見飽きた目もあるいは生気を取りもどすかもしれない。

 

 人が白い衣服を着ているかぎり、洗濯は朝鮮の女性にとって自明の運命となる。先に触れた汚い水路でも、≪桑の宮殿≫(景福宮)の池でも、どこのどぶでも、また城外の小川でも、洗濯にいそしむ女性の姿が見られる。衣服は一部縫い目をほどき、灰汁で3度煮る。そして固いかたまりにまとめ、石の上に乗せて重い棒でたたく。乾かしたあとは筒に乗せて木の棒でたたき、くたびれた繻子に似たつやを出す。女たちは洗濯の奴隷で、洗濯棒を打ちつける規則正しい響きは、ソウルの夜の静寂を破る唯一の物音である。

 

 

『朝鮮紀行』436

 

(朝から晩まで働きづめ)

 

 農家の女性は家族の衣類をすべてととのえ、料理のいっさいをやり、重い杵と臼を使って精米し、作物を頭に載せて市場へ運び、水をくみ、田畑で働き、朝は早く起き夜は遅く寝て、糸をつむぎ(はた)を織り、たいがい子だくさんで、しかもその子供は3歳になるまで乳離れしない。

 

 農家の女性には何の楽しみもないといえるかもしれない。仕事の一部を嫁に肩代わりしてもらえる日が来るまでは、働きづめに働くばかりである。30歳で50歳に見え、40歳ともなればたいがい歯がない。おしゃれへの関心すらごく若いうちから消えてしまう。日々の雑用以外に思いがそれるとすればおそらく鬼神のことくらいで、自然界のどこにでも宿ると考えられる鬼神をなだめるのは農家の女性の特別大事な仕事なのである。

 

 

(家の奥に隠されている)

 

 女性の蟄居は500年前、社会腐敗がひどかった時代に家族を保護するために現王朝が導入した。それがおそらく今日までずっと続いてきたのは、男が自分の妻を信頼しないからではなく、都市社会と上流階級の風紀が想像を絶するほどに乱れ、男どうしが信頼し合えなかったからである。かくして下層階級を除き、女性は老いも若きもすべてが法よりも強い力を持つしきたりにより、家の奥に隠されている。

 

 

(偶然によその男と手が触れ合っただけで、女性は殺される)

 

 ダレ神父(『朝鮮教会史序論』の著者)によれば、故意と偶然のいかんによらず、よその男と手が触れ合っただけでも、娘は父親に、妻は夫に殺され、自害する女性すらいたという。またごく最近の例では、ある下女が女主人が火事に遭ったのに助け出そうとしなかった。その理由は、どさくさのなかでどこかの男性が女主人にさわった、そんな女性は助けるに値しないというのである!

 

 7歳で男女は別々になり、女の子は厳しく奥にこもらされて結婚前は父親と兄弟以外、また結婚後は実家と嫁ぎ先の親族以外、男性にはまったく会えなくなる。女の子は極貧層でもみごとに隠れており、朝鮮をある程度広く旅行した私でも、6歳以上とおぼしき少女には、女性の住まいでものうげにうろうろしている少女たちを除き、ひとりも出会ったことがない。したがって若い女性の存在が社会にあたえる華やぎはこの国にはないのである。

 

 

(女性は教育を受けられない)

 

 少女向けのこの国独自の学校はなく、上流階級の女性は朝鮮固有の文字が読めるものの、

読み書きのできる朝鮮女性は1000人にひとりと推定されている。概して中国から入ってきた考え方のようである。鬼神に関する民間信仰、男性が受ける教育、文盲、法的権利のなさ、慣習の根づよさが重なって、開化国でありながらも女性の地位を未開国並みに低くしてしまっている。

 

 

『朝鮮紀行』(449

 

(男は宦官、女は妓生)

 

 平壌はむかしから妓生の美しさと優秀さで有名である。妓生とは歌舞のできる女のことで、いろいろな点で日本の芸者に似ているが、正確にいえばその大半は政府の所属で国庫から俸給をもらっている。私が最初と2度目にソウルに滞在した当時は、70人ばかりの妓生が王宮に雇われていた。妓生は宮廷楽士とおなじ省の管轄を受けている。

 

 何人もの息子に恵まれても貧しくて養いきれない場合、親はそのうちひとりを政府に宦官として捧げることがあるが、娘の場合は妓生として献上するわけである。妓生はごく幼いころから、さまざまな楽器の演奏、歌舞、読み書き、詠唱、手芸など、ほかの朝鮮女性には欠けていて妓生としての魅力を高めてくれる教養やたしなみの訓練を受ける。妓生の定めは上流階級の男性に楽しいひとときを過ごさせることにあり、朝鮮人男性は自分の妻の知性がどれほど開発されていなくともおかまいなしなのに、妓生にはこれだけの教育が不可欠なのである。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(199

 

ローウェル『チョソン、静かな朝の国』(米国人、188384年朝鮮各地を旅行)

 

(女性は精神的に、道徳的に、社会的にゼロである)

 

 朝鮮に関するローウェルの観察中最も独特なものは、没個性の特性と家父長制、そして女性の地位の欠如という3つが、一体となって社会を形成しているという指摘である。これを理解するために我われはまず、「朝鮮には正確にいって公衆がいない。人びとはお互いに繋がっていない多くの個人の集まりだ。あわせてみても彼らは何者でもない」という彼の命題を、今さらながら吟味してみる必要がある。

 

 ローウェルは、この国では西洋に存在する独自の固体としての個人という概念がなく、またそうした人からなる公衆が存在しないと見た。この命題から出発して、彼はこの国では人間の個性が徹底的に無視されており、人びとは家父長的な体系のなかに存在し、生活していると見た。ことに「女性は現実に存在しない」と断言しながら、彼はこう指摘した。「物質的に、肉体的に女性はひとつのモノでしかない。そしてさらに精神的に、道徳的に、社会的にゼロである」。